Pioneer’s Story
日本ラクロスの夜明け
THE DAWN
文:大橋竜之(初代メンバー)
『慶應義塾体育会ラクロス部25年史』(2011)より引用
最初にラクロスをやろうと言い出したのは誰か、今となってはよくわからない。どうやら最初のメンバーの記憶力は特別弱いらしい。15年前の「十年史」作成の折にこの原稿を書くにあたって、当時のメンバーに色々聞いてみたのだが、その時点ではたった10年程度しか経っていなかったにもかかわらず、わずかな歳月がそれらを曖昧模糊とした記憶の彼方に押しやってしまったようだ。催眠術で記憶を遡りでもしない限り、今後真実が判明することはないかもしれない。
「日本におけるラクロスの創始者」なんて、こんなものである。他のスポーツでもきっとたいして変わらないと思うが、時間と共にもっともらしい物語が作られていくのだろう。まだ創設間もない日本ラクロスの歴史には、正直な記述こそが似合っていると思う。あくまでもわかる範囲で…
はじまり
我々が大学生になった1986年、それは今では想像もできないような好景気だった。いわゆる「バブル景気」というやつである。様々なモノが様々な所から日本に集まってきた時代であったが、一方でインターネットなんてものはまだ普及しておらず、情報については旧態依然とした雑誌、テレビなどで入手するのが普通であった。
最初のメンバーがラクロスを知ったのは、雑誌ともテレビとも言われているが、それはごく自然なことだったのだ。それはあるスポーツ番組だったとも(番組名などは一切伝わっていない)、男性週刊誌の記事だったとも、また一説には某栄養ドリンクのCMだったとも言われている。
我々は慶應義塾高校から、無事大学に進学し、それぞれテニスサークルなどに入ったりしていたが、何故かテレビで見た(としておこう)その新しくて、なんとなくかっこいいスポーツをやってみようと思い立ち、情報収集を始めたのである。
今のようにインターネットが普及している時代であれば、もっと手軽に情報を入手できただろう。しかし当時としては「電話」を使うのがもっとも無難と思われたので、まず我々はカナダ大使館に電話した。なぜなら試みに広辞苑を引いてみたところ(とてもアナログなアプローチである)「ラクロス」がちゃんと載っており、「カナダの国技」と書いてあったからである。
果たして広辞苑は嘘をつかず、確かにラクロスはカナダの国技であったが、どうやら同じ国技であるアイスホッケーと比べてマイナーな存在であり、カナダ大使館ではあまり収穫はないと思われた。とりあえずそこで紹介されたアメリカ大使館に、あまり期待もせず連絡をとってみた。すると日本にラクロスを広めたがっている人がいるというではないか。
その人こそ誰あろう、ノリオ・エンドウ氏だったのである。この人こそ日本ラクロスの父と言っていい人である。エンドウ氏は日系3世のアメリカ人であり、当時は航空機メーカー「グラマン社」の極東地区の責任者であった。そしてもう一つ、アメリカ海軍のエースパイロット養成学校、通称「トップ・ガン」のメンバーだった、という経歴を持っていた。
当時「トップ・ガン」という映画が公開されたばかりであったので、ラクロスについての興味もあるが、米軍のエースパイロットに会えるという期待も、なかったとは言えない。映画の主人公であるトム・クルーズのような精悍なパイロットを想像していた我々が見たのは、何処から見ても普通の、日本人と同じ外見をした、優しそうな紳士であった。この温厚そうな紳士の中に秘められた情熱に気付かなかったからといって、当時の若い我々を責めることは誰にもできないだろう。しかしその後、ラクロスの支援の輪を次々に拡げ、若い我々に様々な経験の場を提供し、ラクロスの成長を支え続けてくれたのはこの温厚そうな紳士であった。
我々を虎ノ門の事務所に迎えた彼は、近年アメリカ側でも日本にラクロスを広めようとしていた矢先であることを伝えた。そして草の根レベルの国際交流を通じて日米の相互理解を深め、経済摩擦を少しでもなくすことがその目的の一つであるという。
その話は、普段まじめに授業にも出なければ、新聞もろくに読まない我々には難しすぎたが、活動開始早々に強力な援軍を得たことは、本当に大きかった。我々にとっても、日本のラクロスにとっても。そうでなければ飽きっぽい我々は、普通にテニスやスキーやコンパに精を出し、ラクロスは今とは違う形で日本にあったか、もしくは存在しなかった可能性もある。
活動開始
記録には5月とあるので、出会ってすぐだろう、我々はラクロスのビデオやスティックをエンドウ氏にもらい、調子にのって結成式なるものを行った。十数名が出席したというが、単なる飲み会であろう。それでもこの出席者のうち、半数ほどが後々までメンバーとして残ったのである。
記念すべき初練習は、歴史ある?「丸子橋グラウンド(の隅っこ)」で行われた。妙に詳しい記録が残っているのだが、5月17日の午後1時からだった。
この頃の練習は、ラインドリル中心、というよりそればっかりだったが、何より困るのはボールの紛失である。当たり前なのだがとにかく下手で、パスミス(か、キャッチミス、もしくはその両方)も多く、貴重なボールが丸子橋の藪のどこかに吸い込まれてしまう。買い足そうにも日本の何処にも売っていないので、仕方がなく代用品を使うことにした。野球の軟球である。これは大きさがちょうど良かったからだが、ラクロスのボールに比べ軽かった。もっとも重さの違いを云々できるほどの腕は誰も持っていなかったが。
6月にはどういう経路でやってきたのか、さっそくマスコミの取材を受けた。これがマスコミ初登場である。文化放送のラジオ番組だったが、当時の主将が出演者の女の子に「情けないってカンジ〜」などと言われたことだけが記憶に残っている。
8月には初めての合宿を千葉の白浜で行った。ルールも知らず、スティックとボール以外の道具は一切持っていなかったのに合宿をやるとは、合宿というより旅行と言われても仕方がないだろう。しかしそういった運動部らしいことをやってみたい年頃であったのだ。
9月に入ると、エンドウ氏の呼びかけで、アメリカでも指折りのラクロス強豪校、ジョンズ・ホプキンス大学の体育部長、ボブ・スコット氏が来日し、初めてちゃんとしたラクロスのコーチを受けることができた。この時もマスコミの取材を受け(これはTVだった)、汗っかきのある部員が、レポーターに「目標は?」と聞かれて、ヘルメットをかぶったこともないのに、「ワールドカップです」と答えるという一幕があった。
このボブ・スコット氏の指導によって、スティックワークの基本を学んだ我々であったが、依然として試合に関することなどは何も知らなかった。従って11月に千葉の洲崎で行った秋合宿では、アイスホッケーのように立った姿勢でフェイスオフをするなど、全くトンチンカンであった。しかし防具も持っていない当時、無理やり試合形式の練習をするとは、若さ(無知)というのは恐ろしいものだ。しかもゴーリーまで立てていたとは…よくケガ人が出なかったものだ。
レボリューション
年が明けると待望の防具がすべて揃った。東京岩本町にある「ブルータス」という、主にアイスホッケーの用具を輸入している会社が、儲け度外視でアメリカから輸入してくれたのである。
道具が揃い名実と共にラクロス部になった(と思った)我々は、あることに気がついた。新入生の勧誘である。部活動である以上、後輩に入って欲しいと思うのは当然である。さらに根本的な問題として、せっかく道具が揃ったというのに、現在のところ試合をすべき相手が国内には存在しない…。
しかし後輩を迎えて気の合う仲間だけでなくなるからには、部の活動方針が必要である。また試合を目標にするのなら、より真剣に活動すべきでは、と我々は考えた。
我々は真剣であった。真剣すぎて、授業にも出ず?に連日そのことについてミーティングを行った。ある時は図書館で、またある時はファミリーレストランで。だいたい正式なサークルでさえない部活の去就を、一国の政策を決めるが如く真摯になれるとは、若者というのは何とき真面目な生き物であろうか。生まれてこのかた、友人と口角泡を飛ばす議論などしたことのない我々は、興奮したその情熱のまま、真剣に運動部としての活動を開始した。我々これを「レボリューション」と呼んでいた。
まずは合宿である。後輩を迎えるのなら、先輩らしく指導するための能力を身につけなければいけない。これまでの合宿といえば、テニスをしたり野球をしたりと、どちらかといえば「旅行」的なものであったが、急に練習メニューがたてられた。まず筋トレだ。これには応援指導部出身のメンバーがリーダーとなった。高校の体育会出身者も大勢いたにもかかわらず、応援指導部の彼が選ばれたあたりに、気合が感じられる。
しかしながら伊豆で行われたこの合宿は天気に恵まれなかった。というより土砂降りだった。そこで季節はずれで旅館がガラガラなのを行いに、宴会場で筋トレを行った。それだけではない、ランニングまで旅館の中で行われた。階段を駆け上がり、駆け下り、廊下をダッシュしたのである。無論旅館には断ったはずであるが、よく許してくれたものだ。
雨の害はそれだけではない。土砂降りだった雨がやっとやみ、グラウンドに向かった我々が見たものは、完全に水没したグラウンドであった。そのグラウンドは山と川に挟まれており、山から滝のように流れ落ちる水が、あたかも滝壺のようにグラウンドに一旦たまり、川へと流れ込んでいるではないか。これは水はけが悪いというレベルではない。ただの川の一部である。無論このままでは練習のしようもなく、水が引くのを待つこととなった。
やらなければいけないのは練習だけではない。新入生を勧誘し、同時に「対戦相手」として他大学にもチームを作らねばならず、他大学の生徒も勧誘しなければならない。そのための入学式巡りのスケジュールとその役割分担、チラシの作成、プロモーションビデオの作成などやるべきことは山積みだった。合宿所に、ビデオ、カメラ、ワープロ、コピー機、果てはファックスまで持ち込み、練習後も遅くまで作業をしていたのである。
水の引いたグラウンドでは、練習兼ビデオ撮影が行われた。もちろん気合が入ったからといって、そう短期間にうまくなるわけでもない。合宿後、家庭用のビデオデッキとラジカセによって、徹夜で編集されたプロモーションビデオは、バックの音楽はそれらしいものの、映像的には爆笑ものであった。未だに、あれを見て新入生が入ってきたことが不思議でならない。
合宿が終了したのが3月27日で、同29日には小手調べに(何の?)、原宿の歩行者天国でパフォーマンスを決行。4月1日からは実際に他大学で勧誘活動に入った。春休み中とはいえ、随分タイトなスケジュールである。
実際に勧誘に回ったのは、慶應大学以外に、早稲田、上智、成城、立教、ICU(国際基督教大学)等であり、基準としては帰国子女が多そうでラクロスを知っている可能性が高いところ、という単純なものだった。しかしながら実際にラクロスを知っている学生などいやしなかった。無論無許可でやっているのでうまくいく訳がない。早稲田ではキャンパスが広すぎて右往左往し、上智では構内放送で「無許可の他校の勧誘は禁止されています」といって追い出され、ICUに至っては、入学式の日を間違えたのか、行ったはいいが学生自体が一人もいなかった。
そんな中で、慶應での勧誘は、大量にというわけではないが反応もあり、スムーズに行った方である。しかし学生食堂におけるサークルの場所とり合戦ではトラブルもあった。サークルの溜まり場となる食堂テーブルの場所取りはこの時期に行われる暗黙の恒例行事だった。夜中から食堂前で待ち構えていた学生が、扉が開くと共に殺到し、扉のガラスが破損、ラクロスの新入部員が割れたガラスでちょっとしたケガを負ったのである。しかし彼の功績は大きい。ろくに授業に出ない我々にとっては、ここほど居心地のいいところはそうなかったからである。
新入生勧誘活動で連絡先を聞いた他大学の学生に電話をかけまくり、彼らにラクロスの実物を見せるために、4月25日からは代々木で行われた「国際スポーツフェア」に参加した。当時はバブル景気の影響もあったのだろう、いわゆるニュースポーツが花盛りであり、このイベントにも「テニポン」や「バー相撲」といった想像もつかないようなスポーツがたくさん参加していた。このイベントも主催者がテレビ局だったので、当然我々ラクロスもテレビで放映された。
この頃からマスコミでの露出は拡大の一途をたどり、ここからの数年で一体いくつの媒体に取り上げられたことか。テレビは民法、国営はオロカ有線放送まで出演し、ラジオ、新聞、雑誌など数限りなく取り上げられた。ついにはカラオケのビデオにまで登場してしまったのはやりすぎだっただろうか。世の中の景気がいいと、この手の文化モノの報道が多くなるのかも知れない。おかげで随分得もしたと思う。
日本ラクロス協会設立
こうしてラクロスの認知度が上がり、他大学にもチームができてくると、エンドウ氏の呼びかけでラクロスを支援してくれていた、木村博氏(現日本ラクロス協会理事長)、故延滋男氏をはじめとする社会人や在日米国人の人々を中心に、日本ラクロス協会設立の機運が高まってきた。
当時、彼らが我々のために費やしてくれた時間の「価値」がどれだけのものであったかを、自分が社会人になってみて、初めて理解できた気がする。どの人も社会人としては責任ある立場の方ばかりであり、それらの人々が忙しい時間を縫って協力してくれたのである。朝の6時や7時から会議を行い、学生には手の回らない金銭面の問題や援助の呼びかけなどのほとんどをやっていただいた。まだ誰も出社してきていない早朝に、某広告代理店の会議室をお借りして行っていたミーティングを、私は未だに忘れられない。こうした方々の無償の援助を頂き、1987年6月4日、日本ラクロス協会の設立パーティが帝国ホテルにおいて催されたのである。
7月になると、これもエンドウ氏の尽力で、ジョンズ・ホプキンス大学のコーチと選手が来日した。コーチの名はドン・ジマーマン、選手はスティーブン・ミッチェル、ブライアン・ウッド、スチュアート・ジョーンズ、クレイグ・ブービエの4名である。彼らは各選手の家にホームステイをし、昼間は多摩川べりの蒸し暑いグラウンドでラクロスをコーチしてくれ、夜は酒を飲んだり、隅田川の花火を見に行ったりした。また、女子がラクロスの練習に参加したのはこの時が初めてである。
外国人と話したこともない我々に、この経験がどれほどのインパクトを持っていたかわからない。彼らはすき焼きを食べれば、生卵が気持ち悪いと言い、ビールを水のように飲んでは、真っ先に覚えた日本語?で「アサーヒ、キリン、サッポロ、サントリー!」と叫び、コーチがうるさいからと言っては、隠れてタバコを吸ったりした。もちろんこれでは日本の学生と何ら変わりはない。しかし我々は、彼らが自分たちと変わりがないことに驚いたのである。
彼らによって何とか基本的な試合の流れまでわかった我々に、嬉しい報せが入った。何とラクロスの試合相手が見つかったと言うのである。お膳立てをしてくれたのは、またしてもエンドウ氏であった。相手は在日アメリカ人の混成チーム、「アメリカンラクロスクラブ」(ALC)で、場所は米軍の横田基地にあるボンクフィールドである。10月25日の試合当日は生憎の天気であったが、何と言っても記念すべき日本における初試合である。我々は初めて着用する真新しいユニフォームに身を包み、颯爽と試合に臨んだ。相手はやたらにうまい経験者と、ほとんど初心者が混じっている。もしかしたらという気持ちを持つほど、自惚れていた訳では決してないが、結果は2−13の惨敗。しかも日本の2点の内1点は、主将が足で蹴って入れたものだった(勿論得点には変わりないが)。
だからといって我々がさほどショックを受けた訳ではない。むしろ試合ができたという喜びの方が大きかっただろう。試合中に熱くなった1年生が、英語における禁句を口走り、米国人に殴られヘルメットが吹っ飛んだ事、シャワールームが一種独特の汗臭さに満ちていた事、試合後にクラブハウスでパーティがあった事など、どれも忘れられない思い出である。こうして日本における初のラクロスゲームは幕を閉じた。
その一月後にはブリヂストングラウンドで、ALCと再戦しており、その時のスコアは前回より進歩して3−9であった事を、我々の名誉のために付け加えておきたい。
日本学生ラクロス連盟設立
1988年に入り、3月には日本人同士の初試合(慶應の1年生と東京大学との練習試合だったが)も行われた。徐々に他校のチーム体制が整ってきたのである。我々は学生のラクロス団体を作る必要に迫られた。設立の正確な日付が手元にないが、当時の様々な会議の議事録を見ると、4月の後半ぐらいだったようである。
6月26日には世田谷のセント・メリー高校のグラウンドを借りて、「ラクロス・フェスティバル」なるものが行われた。日本初の学生大会といっていいだろう。ここでは男子が慶應ー東京、青山学院ー帝京、女子が慶應ー聖心、青山学院ー東京女子体育大学という組み合わせで試合が行われた。慶應は9−3で東京大学を降し、初勝利を挙げている。日本ラクロス協会と日本学生ラクロス連盟という体制ができあがったせいか、ここからのスケジュールは目白押しである。
8月には、米国メリーランド州ボルチモアにあるジョンズ・ホプキンス大学において、慶應大学をはじめとする学生のためのラクロスキャンプが開催された。初めて本場の組織的な練習を体験し、現役の米国代表を含むオールスターチームとの練習試合を行ったことも忘れ難いが、同大学の学生寮に泊めてもらい、学生食堂で食事をし、夏休み中の寮に遊びに来た地元在住の学生と酒を飲み、アメリカの学生生活の一端を垣間見たことも思い出深い。また、この年のアメリカは強力な熱波に襲われており、我々は慣れない海外生活と練習のために疲れきっていたが、別のラクロスキャンプに参加している中高生と試合をし、かろうじて2−1で勝っている。試合後に夕闇迫るグラウンドに現れた沢山の蛍の、日本のものとはちょっと違う輝きが、とても印象的だった。本当にラクロスは我々に様々な経験をさせてくれたのである。
またその直後には、福島県の猪苗代で、日本初のラクロスキャンプを行った。これは日本中のラクロスプレーヤーが、バス4台を連ねて全員集合したものであるが、全員集合でもこの程度の規模であった。それだけに、この頃の日本ラクロスの親密度は今の比ではない。何しろ所帯が小さいので、みんな知り合いだった。
秋にはいよいよ日本で最初の学生リーグ戦開催である。参加チームは、慶應大学以下、エキシビジョンまで含めると10大学、1高校、1社会人(富士重工業)というものであった。この大会で慶應大学は、見事全勝で優勝、パイオニアとしての力を見せつけた。
こうして書いてみると、これだけのイベントの手配と実行を、いったいどうやって実現していたのか、きわめて不思議である。授業にも出て(?)、練習もし、まったく大車輪の活動量である。学生が増えたことが、これらのイベントを多発させた原因でもあり、またこれらのイベントをこなせた理由でもあるのだろう。そして勿論、社会人の方々のバックアップが、非常に大きいものであったことは言うまでもないことである。
この年の最後、初めての関西での普及活動に向かう夜行列車の中で、この強行軍のイベントに同行してくれたエンドウ氏や他の大学の仲間と酒を飲んだ。忙しく、充実したこの年もこの関西遠征で終わろうとしている。来年もまた、様々なイベントが行われる予定である。創立した時には思いもよらないほど拡大しつつあるラクロスに対して、果たして感慨深い思いを抱いたメンバーがいただろうか。きっといなかったに違いない。なぜならラクロスは本当にスタートを切ったばかりであり、しかもまだ全力で走り続けていたからである。我々には後ろを振り返る余裕も、また振り返るべき過去もなかったのだ。
今、社会人になり、もちろん以前ほど濃密にラクロスに関われなくなってしまったが、学生には、自分たちがそうであったように、全力で走りつづけて欲しいと思う。そして自分たちがしてもらったように、今度は我々自身が少しでも学生の力になれればと思う。それこそが、お世話になった方々――今はもう直接お礼を言うこともできなくなってしまった方も含めて――への恩返しになるのではないかと考えている。