Pioneer’s Story
創部当時を振り返って
文:若林瑞穂(’86〜’89年度初代主将)
『慶應義塾体育会ラクロス部25年史』(2011)より引用
それは決して大きな志から始まったわけではなかった。
1986年4月、塾高から大学に進学した我々は日吉のキャンパスで、この先4年間の大学生活をどうすごしていくかを悩んでいた。折角、一生一度きりの学生生活なので何か人生の宝になるような充実した学生生活を送りたい、ある意味どこの学生でも考えるごく当たり前の動機からスタートした。そんな折、渡辺 治君の「ラクロスって知ってる?」の一言からすべてはスタートを切った。
そのあとはとんとん拍子に事が進んでいった。アメリカ大使館からラクロスを日本に広めたいと考えている在日のアメリカ人ビジネスマン「ノリオ・エンドウ氏」を紹介されたこと。氏のはからいで、渡米し、米国ホプキンス大学のサマーキャンプに1ヶ月参加できたこと。また様々な熱意を持った関係者の方が、ラクロスの発展のために協力してくれたこと。ラクロス用具を試験的に輸入していた「ブルータス社」より、防具からクロス、ボールに至るまで用具一式を頂戴できたこと。たまたま父親が大学で教授をやっていた関係で、団体としての認定に必要だった顧問教授を当時の文学部立仙順朗教授が快く引き受けてくれたこと。など運のよさも手伝ってのことだった。そして、何よりも日本ラクロスのスタートが切れた最大の要因は、同じような動機を持って何かの可能性を感じ、このスポーツに携わってみようと思った仲間が10数人集まったことだった。
しかし、スムーズだったのは、あくまで「スタートを切れた」というところまでで、そのあとは苦労の連続だった。まず、常にわが部はふたつの使命を背負っていた。「慶應ラクロス部の存続」と「日本ラクロスの発展」の両立だ。日本のラクロスの発展なくして、慶應ラクロス部の存続はありえなかったし、その逆もまたしかりだった。このふたつのバランスを保ちながら、成長曲線を描く。今から思えば我々の4年間は常にこれとの戦いだったように思う。もう少し具体的に言えば、「いかに皆が常にモチベーションを維持しながら、一生懸命ラクロスを続けられるか」ということだ。当時、マスコミ先導で様々なニュースポーツが日本で紹介されては消えていったのを覚えている。一歩間違えれば、我々も同じ道を歩んでいたかも知れない。
スタートを切って2年くらいはそれなりにイベントが続いていた。1987年10月には在日アメリカ人チームALC(アメリカンラクロスクラブ)と横田基地ボンクフィールドで日本初のラクロスの試合を行なったし、またその翌月には小平ブリヂストングラウンドにて同じ相手とリベンジマッチも行った。'89年には初代日本代表を編成しオーストラリア代表と駒沢で親善試合も行うことが出来た。当時珍しさも手伝って、テレビを中心にいくつものマスコミにも取り上げられていたのを覚えている。これらのとぎれることないイベントで我々のモチベーションはなんとかつながっていたのだ。
しかし大学三年になりかかる1988年くらいから我々は目標を失いかけていた。「体育会でもないのに」「相手もいないのに」「大会もないのに」「何のために練習しなければいけないのか」「ラクロスを単純に楽しむだけであれば辛い練習をする必要はない」皆で集まるたびに、この議題を延々と話し合っていた。考えて見れば我々は文字通り寄せ集め集団だった。当然だが初めから「ラクロスを一生懸命やってレギュラーになって全国大会で優勝して」といった共通の具体的動機で入部した人間は誰一人いなかった。従って、個々に慶應ラクロス部の活動に対する考え方や取り組む姿勢には相当な温度差があったことは言うまでもない。体育会であれ、サークルであれ、通常であれば、目標や目標に向けての達成プロセスには基本ベースがあり、年々そんなに大きく変わるものはないはずだ。しかしながら当時の我々の立場は、明日どうすればいいのかわからない。ましてや部どころかスポーツが存続しないかもしれない。常にそういったものとの隣り合わせの部の運営を強いられていた。そういったことから、上下関係のあり方、練習に遅刻した者や、やる気をなくして練習に出てこなかった者への接し方をどうしたらいいかなど、基本的なことまで悩んでいた。
その後、我々は他大学の勧誘活動なども全員で積極的に行い、学生連盟も発足、1988年秋には東京大学・早稲田大学・青山学院大学・帝京大学を加えた5大学で初の国内リーグ戦の開催までこぎつけた。この頃からは初のリーグ戦で初代優勝校になるため、翌年はその後、力をつけてきた他大学を引き離し連覇するためという目標が出来上がり、迷うことなく全員一丸となって練習に明け暮れていった。その甲斐もあってか'88年、'89年シーズンとも優勝を飾ることが出来、我々の4年間の慶應ラクロス部の活動は終止符を打った。
振り返れば、ニュースポーツラクロスとの出会い⇒国内初試合⇒学生大会の開催⇒大会優勝・連覇と、我々は常に目先の目標を変えることで成長し続け、その活動により日本ラクロスも同時に発展していったそんな4年間だった。
近年のラクロスは我々の頃からは考えられないほどのレベルの高さだと思う。特に昨年(2010年)ワールドカップで日本代表がオーストラリア代表に勝ったことは、1989年の親善試合でオーストラリア代表に我々日本代表(当時は大半の選手が慶應)が54−0という大差で敗退したことを思い浮かべると隔世の感があり、感慨深いものがある。
しかし、当時の4年間の成長スピードとここ10数年の成長スピードを比較すると、慶應ラクロス部は、そして日本ラクロス界はまだまだ成長し盛り上がることができると信じたい。これからも、我が慶應ラクロス部は創部30年40年50年と歴史を刻んでいくことだろう。これからも自分たち慶應が勝利するためにどうしたら良いかを考え、行動をしていくことだろう。しかし後輩には、慶應の勝利だけでなく、常に視野を広げ、日本ラクロス界の発展を考え、行動していくことを望みたい。それが、これからも日本ラクロス界のパイオニアとしての役割であり、それこそが慶應ラクロス部の更なる成功への近道だと思うからである。
最後になったが、遅ればせながら日本ラクロスの創成期および慶應ラクロス部の成長を支えてくれたすべての方々にこの場を借りてお礼を申し上げたい。