Pioneer’s Story
慶應女子ラクロスの夜明け
The Dawn: Keio Women’s Lacrosse
文:脇村美和子(’90年卒 旧姓藤井)
『慶應義塾体育会ラクロス部25年史』(2011)より引用
歴史の編纂、それはとてもやっかいなものである。「慶應女子ラクロスの歴史」といってもメンバー一人一人の物語は違う。本当はメンバーの数だけの歴史があるのだ。本来ならば、一人一人の記憶や想いを掘り起こし、その集合体としての「歴史」を記すべきなのだろう。けれども、残念ながら現時点でそれをするのは難しい。それならば、今後のひとつの足がかりとして、先ずは私が経験した女子ラクロス部の始まりを、「物語」を、記すことにする。それにあたり、大学卒業以来20年間倉庫に保管してあったダンボールを4つ発掘し、そこに残されていた一次資料(書類、記録、手紙、写真、手帳など)に基づき、なるべく史実に忠実であることを努めようと思う。
夜明け前
慶應ラクロス部創部25周年というけれども、女子は実は創部23年になる。男子に遅れること2年して創部したことになる。けれどもこの間、女子は何もしていなかったわけではない。実は女子の創部メンバーの多くは、男子ラクロスの立ち上げ、そして日本ラクロス協会の設立に1986年、87年から関わっていたのである。いわば縁の下の力持ち。日本のラクロスの産声を、微力ながらも影で支えていた自負がある。ある者は通訳兼日本ラクロス協会の初代総務部長として、ある者はマネージャーとして、慶應に、そして日本にラクロスが始動し、広まっていくこと、ひいてはラクロスを通じて国際親善に貢献するという「夢」の実現に向けて、慶應男子と共に、そして社会人支援者のエンドウさん、延さん、木村さん、森賀さんと共に歩んでいた。
私とラクロスとの出会いは、1986年5月小雨降る日吉の噴水の前で、同じクラスだった亀井くんに「ガイジンに会いに行くから、一緒に来てくれない?」と誘われたことがきっかけだった。軽い気持ちでのこのこついていったことが、その後の私の大学生活を決定づけるものになるなんて思いもしなかった。18歳のあの日、初めて「会社の会議室」に通されて、大きな机にみんなでL字に座った様子を鮮明に覚えている。私は慶應男子とエンドウさんの間に座り、通訳をした。慶應の連中は「ラクロスというスポーツをしたいのですが、どうしたらいいんでしょうかね?」と軽い乗りだった。対するエンドウさんは「よく来てくれた。君たちはこれからラクロスを通じて、国際親善に貢献するのだ」「先ずは日本にラクロスを普及させる、新しいシステムをつくろう」と、この時すでに壮大な構想を語っていらした。この両者の不思議な温度差に戸惑いながらも、私はエンドウさんの話に引きつけられていった。中学、高校時代、往復ビンタは当たり前の封建的なバレー部を経験し「これからは自分で考えて、行動したい」と漠然と思っていた。そんな時に、亀井くんに声をかけられたのだった。以後、一週間に1回、多いときには3回、早朝のニュー山王ホテルや夕方のアメリカンクラブにて、日本ラクロス協会発足に向けたエンドウさんと他の社会人支援者とのミーティングに参加した。社会人支援者は最初は在日米国人ばかりだったが、徐々に日本人も増えていった。代々木の岸体育館内の様々なスポーツ協会を訪ねて規約のコピーをいただき、見よう見まねでラクロス協会の規約も作成した。そして、1987年4月、帝国ホテルにて日本ラクロス協会の設立パーティーを開催した。
初代日本ラクロス協会理事長を務められたノリオ・エンドウさんは当時グラマン社の極東責任者として東京在住でいらした。日系3世の米国人として、第二次大戦中、日系人強制収容所を経験なさり、その後海軍のパイロットとして朝鮮戦争も経験なさった。そのエンドウさんは、最初から「Lacrosse Makes Friends」を日本ラクロス協会のスローガンとして掲げていた。これはエンドウさんにとって単なる「願い」を超えた、「信念」のようなものだったと思う。ラクロスを通じて、国境を越えて若者たちが交流し、お互いを知り、友人になる。すると例え将来、国が戦争に向かって突き進み、相手国が「悪」だ、と政府が扇動しても「自分の知っている米国人は(日本人は)こんなに良い人だ」とプロパガンダに対して疑問を持てる、そんな個人的な経験を作ることが彼の目標だった。それは、二つの祖国の狭間で引き裂かれ、その後は軍人として戦争を実際に体験したエンドウさんの信念だった。この信念が、多くの日米両国の社会人や学生を動かして、ラクロス協会を発足に導いた。私も含め、当時は「ラクロスを通じての国際親善」という関心からこの競技を始めた学生も多かったのではないだろうか。
夜明け
日本の女子ラクロスが始まったのは1987年、夏の暑い日だった。場所は、砂埃舞う田園調布グラウンド。東京女子体育大学の生徒たち数人が、来日中だったジョンズ・ホプキンス大学(JHU)のドン・ジマーマンコーチから、パスとキャッチの指導を受けた。使用したのは当然、男子ラクロスのスティックだった。そもそもこのイベント、JHUのコーチたちがラクロスを教えに来日することを報じた新聞の記事を、たまたま目にした東女体の学生が、「自分たちにも教えてくれないか」と自ら問い合わせて実現したものだった。
実は以前からラクロス協会を中心に、女子のラクロスを始動させようとする動きはあった。例えば1987年4月、アメリカンクラブにて複数の大学の新入生を対象にしたラクロスの説明会を開催した。参加した新入生は男子は3校25人。そして女子は5校11人だったが、実際にラクロスを始めたのは慶應男子の12名のみだった。この他にも、インターナショナル・スクールなどに出向き「ラクロスって知っていますか?」と宣伝して回ったりもした。幸い、新しいスポーツへの関心は高く、テレビや雑誌の取材も多かった。しかし、1986、87年の女子ラクロスの普及・広報活動は、すぐにそこでプレーヤーが生まれるというようなものではなく、「ラクロスの種を蒔く」というものだった。そんななか、初めて自分たちから「やりたい」と声を上げたのが東京女子体育大学だった。その数ヶ月後、1987年11月には青山学院大学の女子数名が、青学男子と一緒に練習を始めた。そして、いよいよ慶應も動き出した。
創部、初練習
20数年もの歳月が経つと全ては霧の向こう、大事なこともすっかり忘れてしまっている。だれがどのように女子部を始めようと言い出したのか、詳細は今となっては不明である。現在確認できる記録では、慶應女子ラクロス部の正式な初練習日は1988年4月2日である。11時から1時まで丸子橋グラウンドで行った。メンバーはせいぜい4、5人程度だったようだ。その日の夜、エンドウさんのお宅にスティックをもらいに伺っているので、いったい何本のスティックでどんな練習をしたのだろうか。なにせ男子ラクロスは知っているが、女子ラクロスはまだ実際には見たことがなかった。おそらくこの時はまだ男子スティックを使用していたかもしれない。初練習の具体的な内容は忘れたが、もちろん見よう見まねのパスキャッチ程度のものだっただろう。それでも、とにかく「練習」ができたのが嬉しくてしょうがなかった。今まで脇役としてラクロスを支えてきた立場の我々が、今、初めてスティックを持って風を切って走っている! 表舞台に立った! と、ただただ嬉しかった。
初練習の翌日、4月3日も9時半から練習をしている。これ以降夏まで、週1〜3回丸子橋グラウンドにて練習を行った。当時の練習は3人集まれば御の字という状態だった。携帯電話などなかったあの時代「今日はだれも来ないのかなぁ」と多摩川の風に吹かれながらぼんやり遠くを眺めていたのを覚えている。やがて向こうの方からスティックを持った女子がやってくると、砂漠で再会した恋人のように嬉しかったものだ。そして3人でラインドリルを無理やりしてみたりした。4人集まってラインドリルが"余裕"でできた日は、とても充実感に満ちて、達成感で輝いていた。
4月4日12時からは日吉で新入生の勧誘をした。勧誘といってもまだ2回しか練習をしたことがなく、もちろんユニフォームもなかった。男子のルールは我々女子が訳したので知っていたが、肝心の女子のルールは未知だった。当然ながら、ほとんど勧誘の成果はなかった。その後、3時半から女子ミーティングをしている。この時の参加メンバーは4人。全員がそれまで男子ラクロスのマネージャーなどをしていた2年生3人そして3年が1人だった。これ以降、手分けして懸命の部員勧誘をするも、なかなか人は集まらなかった。なにせラクロス自体、どんなスポーツかも知られておらず、たとえ知っていても「え、ラクロスって女子もするの?」という認識だった。男子と違って防具はつけず、ぶつかり合いもない、と先ず男子ラクロスのイメージを払拭するところから始まった。男子ラクロスの勧誘に使われた「空中版グラウンドホッケー」という説明では引いてしまう女性が多かった。そこでエンドウさんに教わった通り「まるでダンスのように優雅で美しい」スポーツだと表現した。そして、「女子では珍しいチームでするスポーツ」、「今、始めたら全日本も夢ではない」、「とにかく楽しい」、「他大学と交流ができる」などなど、あの手この手の甘い言葉で、会う人会う人にラブコールを送っていた。しかし、あわよくば関心を持って、練習に顔を出してくれても、多摩川沿いのグラウンド脇や、電車の高架下で、女なのに堂々と着替える姿や、練習人数の少なさに閉口して去っていく人たちも多かった。
結局メンバーは入れ替わり立ち代りしながらも、創部初年、1988年の秋頃の固定メンバーは3年1人、2年4人、1年5人だった。慶應男子の創部メンバーは1990年卒の代と、とても明確だが女子は違う。女子の創部メンバーを定義するとしたら、創部初年、1988年に共に活動した、1990年卒から1992年卒の3代、10人のことを指すだろう。
この女子ラクロスの創部メンバーのルーツは多様だった。ほとんど全員が普通部出身の男子と違って、出身高校も違ったし、入部してくるルートも別々だった。さらには過去の運動経験の有無もばらばらだった。ハードな練習をやる気まんまんの人もいれば、転がっていくボールは「歩いて」ではなく「走って」取りに行くものだ、という認識すらな人もなかにはいた。それぞれがラクロス部に求めるものが違い、価値観の多様性を許容していかなければ部として成り立たなかった。また、創部初年のメンバーは1年から3年までの3学年にわたっていたが、ラクロス経験においては、みんな同じゼロからのスタートだった。「前例」も「正解」も何もない状態から用具を輸入し、ルールを訳し、部としての組織を作り、練習メニューもみんなでアイデアを出し合って決めた。その上、当時部長だった藤井が体育会的なトップダウンではなく、「ひとりひとりが自分で考えて、行動する」ことにこだわりを持っていた。かくして、3年生のことを1年生が「○○ちゃん」と呼び、上下関係なくみんなが意見を言い合えるようなフラットな関係の素地ができたのだった。時には練習内容などを巡り、学年を超えて真剣に口論もした。女子ラクロス部の人材の多様性や、上下関係のなさは、「組織」としてまとまりにくい面もあったが、「個人」としては、違う価値観を受け入れながらも、自分の意見を言い、共に活動する、という社会に出てからとても大切なスキルの、貴重な学びの場であったと思う。
1988年5月29日の学生連盟ミーティング報告書によると、この時点で慶應女子は部員数8名、練習は週1〜4回、週末は聖心との合同練習との記載がある。ちなみに、当時青学の部員は21名。5月に創部したての聖心はいきなり20名。早稲田には女子チームができつつある、という状況だった。東女体、青学についで日本で3番目に創部したはずの慶應は、この後もずっと部員数が伸び悩んでいた。輝かしい慶應男子ラクロス部の影で、比較され悔しい思いをしたこともたくさんあった。どうやったらそれなりに厳しい練習をして、なおかつ部員を増やせるのか、いつもみんなで頭を悩ませていた。部員数を確保して「練習」がしたかった。できればせめて「ラインドリル」がしたかった。そしていつか「試合」がしたかった。そのためには部員は12名欲しかった。創部初年の女子ラクロス部の目標は「強くなる」とか「試合に勝つ」というレベルのものではなく、部として「存続し続けること」だった。存続し続けられれば、いつか強くなる時が必ず来る、と強く願っていた。この頃、よく頭にあった言葉は「敷石」だった。自分たちは将来の女子ラクロスの「敷石」なのだ。道なきところの草を刈り、自分たちの手でひとつひとつ石を置き、道を造っていた。舗装された立派な道ではなく、手作りの粗末な道である。でもいつかきっと、この敷石の上を未来のみんなが歩いてくれる。そう想像することは、当時の私たちにとって希望であり、深い喜びだった。
初試合
慶應女子の記念すべき初試合は、1988年6月26日。世田谷のセント・メリー高校の人工芝のグラウンドで開催された「ラクロス・フェスティバル」である。この日に向けて他大学との合同練習を、週末に3回ほど開催し、試合前日の合同練習の後には日吉の教室にて、他大学の女子も招いてのルールの講習会を開催した。講師はコニー・ランゼルさん、ジョイさんほか数名の東京在住の米国人プレーヤーだった。夜にはエンドウさんのお宅にみんなでお邪魔して、ラクロスのビデオ鑑賞をし、女子ラクロスとはなんぞやのイメージトレーニングもした。こうして翌日の試合に臨んだのである。
ラクロス・フェスティバルの女子の正式な試合は、東女体VS青学の1試合だった。聖心VS女子混成チームの、7分ハーフのエキシビション・マッチも行われた。単独ではまだチームが組めなかった慶應は、この混成チームとしての出場だった。7名ほどの慶應のメンバーを中心に早稲田やエンドウさんのお嬢さんのキヨミさんも参加。それでも人数が足りないので青学からも1名助っ人を頼んで、やっと12人揃ったのだった。対戦相手の聖心は青いチェックのスコートというそれらしい格好だが、我々混成チームにユニフォームはなく、色とりどりの綿の短パンに赤いビブスといういでたちだった。マウスピースはまだ存在しなかった。しかも、スティックはまだウッドではなく全員スチールを使用していた。当日の写真を見ると、クリースの線もなく、ゴール前に12人ほどがごちゃごちゃに集結している。なにはともあれ、8対0で我々慶應が率いる女子混成チームが勝利した。
米国 ヒルトップ・キャンプ
1988年7月31日から8月21日、日本の女子プレーヤーが初めて米国のラクロスキャンプに参加すべく渡米した。慶應からは藤井(3年)と尾崎(2年)の2名。そして東女体(岩瀬、岡本)と青学(名越、田崎)からも2名ずつ、計6名が参加した。またエンドウさんや延滋男さん(第二代日本ラクロス協会理事長)、木村博さん(第三代理事長)もお忙しい中同行してくださった。最初の1週間はボストン近郊の様々な人種、職業の米国人家庭にホームステイをさせていただいた。7人子供のいる敬虔なカトリック教徒のつつましい家庭から、富裕なユダヤ系ファミリー所有のヨットやプライベート・ビーチなど、個々の家庭ごとにまったく違う、その家庭の文化があった。まさに、アメリカ社会の多様性を内側から体験できた、貴重な機会だった。そしてフィリップス・アカデミー(高校)の元全米チーム代表選手を交えての練習にも参加した。
8月7日から12日はフィラデルフィアにて、世界女子ラクロス連盟会長のジャッキー・ピッツさん主催のヒルトップ・インターナショナル・ラクロスキャンプに参加した。美しい丘陵地帯のふかふかの芝のグラウンドに感動しながら、本場のプレーヤーたちの迫力と、スピード溢れるプレーを目の当たりにして、度肝を抜かれた。ちっとも「優雅で美しいダンスのような」スポーツではないではないか!クレイドル、パス、キャッチの基本から、ポジション、ルール、全てを一から学んだ。この時ジャッキーは、すでに日本の女子ラクロスの発展には指導者の育成が不可欠との認識を持っていて、我々日本人参加者たちは個人の技術の上達はもちろん、それをいかに伝えていくか、コーチングの方法も同時に教わった。
ジャッキーの勧めでスティックをスチールからウッドに切り替えて、ルールもそれまで使用していた米国のNCAAルールからIFWLA(国際女子ラクロス連盟)の国際ルールに切り替えた。日本ではスチールのスティックしか見たことがなかった我々は、米国のプレーヤーたちが、華麗な手さばきでウッドを操る姿に「かっこいい!」と憧れ、ウッドは「新しい道具」でスチールは「まがい物」だと理解したのだった。帰国後、秋の第1回リーグ戦に向けて急ピッチで国際ルールの翻訳にとりかかった。
ジャッキーは今後日本が国際舞台で試合をしていくことを、ちゃんと想定してくださっていたのだった。エンドウさんが日本のラクロスの「米国のお父さん」だとしたら、ジャッキーは間違いなく「米国のお母さん」である。いつも明るい笑い声を絶やさないジャッキーの、暖かさとバイタリティーに包まれて始動した日本の女子ラクロスは幸運であった。私のウッドのスティックには今でもジャッキーのサインと言葉が残っている「Always be positive !(いつも前向きで!)」。
猪苗代キャンプ
米国から帰国した1週間後の8月28日から9月3日、米国に行ったプレーヤーたちが学んだ技術を他の選手たちに伝えるために、猪苗代で男女合同の合宿が開催された。女子は8大学(慶應、東女体、青学、聖心、松蔭、早稲田、帝京、白百合)男子は9大学、合計200人以上の参加者だった。30日からはこの合宿のために来日したジャッキーが合流し、女子の合同練習を指導してくださった。雨とブヨに悩ませられながらもジャッキーというすばらしい指導者を得て、日本国内で初めて本格的な練習、それも試合形式の練習をすることができた。メンバーの数も十分、コートも、整備されたグラウンドもゴールもあって、こんなに恵まれた環境で練習ができるのは夢のようだった。また、この合宿中にジャッキーから初代日本代表チームの発表があり、慶應からは3年の藤井と2年の種房が選ばれ、翌年の第1回ラクロス国際親善大会に出場した。
合宿後、ジャッキーが我々を米国でもてなしてくれたように、我々も浅草、鎌倉、東女体の新体操発表会などにお連れした。エンドウさん宅に滞在していたジャッキーを訪ねて、他大学も含めた大勢の女子とちらし寿司を作ったり、朝までルールの説明を聞いたり熱いトークを繰り広げたのも、楽しい思い出だ。ちなみにエンドウさんは、普段から何かと学生たちをご自宅に招待してくださっていたが、ジャッキー滞在中の1週間の間に我々は5回もエンドウさんのお宅で夕食をいただいている。米国の旅行に同行してくださったときは、飛行機が欠便になったので、NYからボストンまで5時間も我々を車に乗せて送ってくださったりもした。エンドウさんは組織作りや人脈作りだけでなく、細かい実務的な面においても、必要とあれば信じられないほど親身になって助けてくださった。エンドウさんとご家族には本当にお世話になったと、改めてつくづく思う。
エンドウさんだけでなく、我々学生をサポートしてくれた社会人の方々の献身の、本当の価値を分かるようになったのは、自分が社会人になり家庭を持つようになってからかもしれない。私の手元には病床にあってなおラクロスのことを気にかけてくださった、延さんや森賀晃さん(日本ラクロス協会理事)からいただいた手紙が残っている。もう直接御礼を言うことはできないが、自分たちがしていただいたように、いつか自分も学生のために少しでも役立ちたいと願っている。それが我々にできる唯一の恩返しなのかもしれない。
日本学生ラクロス連盟、女子合同練習
1988年、まだラクロス人口も少なく、大学の壁を越えて日本の男女ラクロスプレーヤー全員が知り合いだった。日本ラクロス学生連盟をこの年の4月に発足させてから、キャンプへの渡米、米国からのコーチの招聘、初めてのリーグ戦の開催、翌年の第1回国際親善試合の準備など企画は目白押しだった。学連の貸し事務所のあった恵比寿のカレッジミュージアムにはほとんど毎日のように通い、大学の枠を超えて違いは関係なく皆で仕事をした。当時、女子も男子もラクロスプレーヤーの多くはプレーだけに専念するなんていう贅沢な(?)状態ではいられなかった。特に女子は各大学ともに創部したてで、ひとり立ちしていなかったので、むしろひとつの大きな「村」のような、支えあう繋がりがあった。学連での活動を通じての交流をもとに、女子は5月頃から合同練習をした。部員数が少ない大学でもあきらめずに存続できたのは、この学連の存在が大きかったのではないだろうか。そして、この学連の活動も「ラクロスをする」ことのひとつの大きな魅力であったことも間違いない。
そして猪苗代キャンプ後、9月、10月慶應は聖心、青山と合同で練習を行った。週3〜4回、朝6時50分または8時半に多摩川園駅に集合し、田園調布グラウンドの横の原っぱで練習をした。記録によると、9月14日の練習参加者は慶應1名、聖心3名、そして青学1名の計5名だった。練習メニューはストレッチ、ボール上げランニング、ラインドリル(オーバー、アンダー、オーバー・ザ・ショルダー)、スクエアードリル(5人では無理でしたとの記載あり)、ダッシュの練習、片手キャッチとクレイドル、そしてなぜか10分ノック。以上、9時から2時間の練習だった。9月16日は参加者が9人になり(慶應4名、聖心5名)念願のスタードリルができて、練習記録には喜びのハートが飛び交っている。
また、この頃にフェリス大学とトキワ松高校にもラクロスを始める動きがあったので、ラクロスの紹介や指導をしに行った。当時、慶應女子の部員が集まらないという切実な悩みを抱えながらも、パイオニアとしての使命を担っていたので、「ラクロスを始めたい」という声を聞きつければ、どこにでもコーチに行ったものだった。正確な数はもはや分からないが学習院、上智、フェリス、トキワ松高校、などあげればきりがない。年末には松蔭の招待で関西遠征にも泊りがけで行った。
第1回リーグ戦
慶應単独のチームとしての初めて試合は、1988年秋に開催された第1回学生ラクロスリーグ戦においてだった。11月6日、子供の国のサッカー場で聖心と対戦し、最終的な点数は分からないが、残念ながら慶應が負けた。女子の公式戦は、東女体VS青学の1試合。慶應はまだ公式にエントリーしておらず、エキシビション・マッチとしての参加だった。公式戦でないとはいえ、6月の女子混成チーム状態から脱却し、夢にまでみた慶應チームとしての初試合であった。ちなみに、9月16日の学連ミーティングの時点ではまだ慶應単独での試合は予定されていなかった。つまり、試合の二ヶ月前の時点で、部員数が12人に達していなかったのである。
この頃、必死で部員集めをしていた。とにかく慶應として試合がしたかった。「今入部したら即レギュラーよ!スティックを持って立っているだけでいいから!」と必死で14名の部員の名前をかき集めた。試合当日集まったのは確かぎりぎりの12名。その日初めてスティックを手にしたような人の目にボールが当たって怪我をしてしまい、非常に反省したのを覚えている。その方には大変申し訳なかったが、普段ゴールを使っての練習なんてめったにできない状況にあって、広いグラウンドでゴールを二つも使ってプレーできることが、とにかく嬉しかった。当時はバウンダリー(今でいうサイド/エンドライン)の規制線がなく、審判がホイッスルを吹くまで、つまり木や人などの障害物にぶつかりそうになるまで、どこまでも走り続けた。白地に緑のチェックのスコートに、背番号は白いポロシャツに赤いビニールテープを数字の形に貼っただけだった。これが慶應として戦う、記念すべき初試合だった。慶應として揃いのユニフォームを着て「勝利」という共通の目標に向かってみんなと戦う、今ならば当たり前のことが、やっと叶った瞬間だった。
初合宿、新人の勧誘
初めての合宿は1989年3月だった。場所は伊豆。参加者は10名。ゴールは持ってなかったので、スティックとボールだけを持って行った。練習内容は覚えていないが、青春だわ!と浜辺をランニングして、みんなからブーイングが出たのを覚えている。この合宿の一番の成果は、春の新入生の勧誘をどうするかの相談をして、綿密な勧誘計画を立てたことだった。
4月4日の入学式から日吉のキャンパスを、スティックを手にユニフォームのスコート姿で連日練り歩き、目ほしい女子に声をかけまくって勧誘をした。説明会も2回男子と一緒に行い、公開練習は2回開催した。この時に配ったビラ2種類が手元にある。幅広い層の人たちにアピールするように2種類の違うトーンのビラを作成したのだった。軽いのりバージョンのキャッチフレーズは「ちょっぴりWILDで、それでいてTRADITIONAL。今一番TRENDYなスポーツ!」。まじめバージョン「ラクロスってなんだろう?」ではラクロスの歴史から日本の現状まで盛り込み、ラクロスを通じた国際交流や、ワールドカップ出場の可能性をアピールした。スコート姿がインパクトがあったのか、ビラが良かったのか、たった3日で6人入部。最終的には8人のやる気のある新入部員を獲得することができ、嬉しくて、可愛くて食べてしまいたいくらいだった。
1989年4月、悲願の「部員数12名以上」を達成し、慶應女子ラクロス部は新しい段階を迎えた。総勢18人になり、練習は慶應単独でも成り立つようになった。もはやラインドリルを夢見る状態ではなく、スクエアーパスも当たり前にできるようになった。平日3回の練習のほか、週末はガス橋のグラウンドも使う躍進ぶりである。1989年のシーズンは秋の第2回関東学生リーグ戦で幕を閉じた。戦績は、青学には負けたものの、白百合と新人戦優勝校には勝利し、2勝1敗の勝ち越しだった。夢にまで見た慶應としての初勝利だった。
同じ頃、日本の女子ラクロスも新しい段階を迎えていた。6月の第1回国際親善試合以降、毎週のように新しいチームが各地で結成され、ラクロス人口は爆発的に増加した。1989年11月30日の時点で、女子ラクロス30大学、500余名、高校は7校以上。一方男子は20大学、高校は2校と、男女のラクロス人口はついに逆転したのだった。
ラクロスと国際交流
なぜ日本のラクロスはこんなにも急速に発展できたのだろうか?ひとつには日本のラクロスが、その始まりの瞬間から「国際交流」をスローガンとして掲げていたことがあったのではないだろうか。この国際交流というコンセプトがあったからこそ、非常に早い段階から海外からコーチや選手を招き、日本からも米国の合宿に参加する、その仕組みが出来上がったのだ。その結果、早期から技術の向上が図られ、マスコミの注目も集まり、競技人口も増えていったのだろう。このダイナミックな発展の仕方は、ひとつのスポーツ史として非常に稀なのではないだろうか。
日本ラクロス協会のスローガン「Lacrosse Makes Friends」はエンドウさんが掲げた言葉だった。1986年5月、小雨降るあの日、慶應の学生とエンドウさんが出会ったその瞬間から、日本のラクロスと国際交流は不可分の関係となったのだった。そして、この「出会い」がその後の流れを創っていったのだった。また、時代も良かった。バブル経済の真只中、世の中にお金が余っていて、たくさんの企業やマスコミがその使い道を模索していた。社会の注目も、資金的な援助も集めやすい時代だった。同時に、日米経済摩擦があったからこそ、日米関係に対する危機感がつのり、「ラクロスを通じての国際交流」という信念に多くの人が共感したのだった。人と人との出会い。そして時代との出会いが、慶應の、そして日本のラクロスを生み出していったのだった。
未来へ
慶應女子ラクロスの創世記、何もないところから、ひとつひとつ自分たちで何が必要かを考えて、創り出した。なんて「贅沢」なことができた時代だったのだろう。回り道ばかりしていたかもしれないが、自分たちで考えて、行動したことの結果には「失敗」はなく、「学び」しかなかった。慶應ラクロスがパイオニアとしてあり続けるためには、失敗を恐れずに、自分たちで考え、行動し続けて欲しいと多くのOG、OBは願っている。慶應ラクロス部という共通の場を経てきた我々OG、OBは、慶應ラクロス部をひとつの故郷のように大切に思っている。けれども、この故郷は変わらない停滞した故郷であって欲しくはない。その時、その時代を担う現役の学生たちが、自分たちで考えて創りあげるものであって欲しい。なぜならば、社会に出て大切なのはラクロスの技術よりも、自ら考え、創意工夫し、行動した経験だからだ。ラクロスの大きな流れを創ってきた「出会い」は今でも続いている。三田ラクロス倶楽部の活動を通じて、学生時代には面識のなかった年の離れたOG、OBとの、そして、現役の学生との出会いである。この出会いが次に何を生み出すことができるのか、我々の新たな挑戦である。